小学生の頃、
高学年は弁論、
低学年は童話を暗記して発表するという行事があった。
今でこそ、個人それぞれの得意なことや、
興味のあることに着目し、
それを伸ばそうとか、
発見しようとか言う時代になってきたが
40~50年も前の学校教育は違っていた。
みんなが同じことを学んでいく中で、
そこからはみ出したり、
ついていけなかったりすると
ダメな子
できない子という
レッテルが張られる。
計算ができなかった
漢字が書けなかったり
運動が苦手だったりすると
もうそれで落ちこぼれみたいに扱われる。
ひとりひとりの個性など
無視され
人格の尊重なんて存在しない
みたいな時代だったように感じる。
勉強のできる子が
優秀とされ、
何でもクラスの代表扱いにされていた。
私は本の文章を覚えたりするのは割と得意なほうだった。
感情をこめてそういうものを声に出して読むのも好きだった。
そういうことから言えば、童話大会は私自身にとっては楽しみなはずだが、
そうではなかった。
いつも目立つ子、成績がトップクラスの子、
先にそういう生徒が選ばれてから
その段階で初めて、
選ばれた子たちが本を選び、読んで覚えるという
そんな腑に落ちないやり方で代表が決められていた。
とても悔しかったのを覚えている。
中学の弁論大会もそんな流れだったような気がする。
高校生になって、やはり校内弁論大会というのがあった。
このときは生徒全員が初めに原稿を書き、
クラスで発表して
その中から代表を決めるというもの。
本来、それが平等なやり方だと思える。
そしてクラスの代表として私は校内大会に出た記憶がある。
結果は声が小さいという基本的なマイナス要素で減点され、
それでも特別賞なるものをいただいた。
残念ではあったけれど、
自分の意見を論文という形で発表することができ、納得できたし、
満足もした。
2年生の年から弁論大会はなくなったので、それっきりになったが、
テレビで青年の主張などが報じられると
その時のことを思い出す。
昭和から平成、令和と
時代は移り
それに伴い、今
「みんな違って当たり前」
「それぞれ自分の花を咲かそう!」
など
人格を重んじ、
個性の表現や自由が
眼を見張るほど開放されてきている。
こんなことが?
と思えるようなことでも、
今やオリジナリティがあれば社会に認められる時代。
いうなれば、何でもありの時代。
ユーチューバーだとか、マニアック的なことでも
深く追求しその道を極めれば世間で取り上げられ、
認めてもらえたりもする。
《こうでなくてはならない》そういう枠が今や取り払われ、
ひとりひとりの生き方が多様化し、認められてきていることは、人格を尊重するという観点からもプラスに向いてきたのではないかと感じる。
以前、近所に住んでいた若い男性が、インターネットを使って在宅で仕事をされていたが、ある日突然、自ら命を絶たれた。
その話をもとに義母が、
「あんな、家の中にこもってばかりの仕事なんかしてたから自殺なんかしたんだ」と言い出す始末。何の根拠もない。
それこそが偏見であってナンセンスであると私は感じた。
そんなふうに
一日自宅にこもってパソコンを相手に仕事などをしているということに対して
義母たちがそういう偏見を抱いているのは事実であり
私もこうして
たとえ数時間であろうと
部屋にこもって物音立てずにブログなど書いたりしていれば
義父母にあれこれ思われているだろうなと
ネガティブな方へ想像してしまう。
既成概念や偏見で人を見る、決めつける
そういう行為は当然歓迎できない。
できる子、できない子、その基準は何なのか。
万人がお互い、個性を尊重しあい、生きづらさを緩和できる、そういう社会に少しづつ向かっていけたらいいな……と……。
(スポンサーリンク)
気になる方は詳しくはこちら↓それぞれクリックしてみてくださいね
声優・アーティスト・作家のイベント企画など目白押し!ゲーマーズ